ハガッチ(ラフルー)の独り言

ハガッチ(ラフルー)の思考のゴミ捨て場

表現について思うこと

 よいしょ

 ハガッチ(ラフルー)です、こんばんは。

 2週間再延長となっていた緊急事態宣言も解除されるようですね。再々延長となった時はいろんな人の意見やら不満やらが飛び交っていましたが、皆さんどう過ごされたんでしょうか。自分は何も感じず、むしろ快適に過ごさせていただきました。どうやら引きこもり耐性は高いみたいです…。まぁでも感情論ばかりで議論しても仕方ないですよね。もう少し行政は科学的根拠を示したら良かったのかなー、とは思ったりしますが。

 

 今日扱うのは「表現」についてです。

 なんか前回の「部活」以上に堅苦しい感じになりそうですが、まぁあくまで自分の思考整理みたいなブログなので、読みたい方は読んでいただければって感じです。

 そういえば前回の部活の記事、なんか画像入れてみたいなーとは思ったんですけど、ネットで検索して出てくる画像って使っていいのかよく分からないし著作権の問題とかもありそうなので、とりあえず自分が持っている漫画の画像にしました。他に適当な画像見つかったら後で更新してるかもしれません。まぁでも漫画から学べることって結構多いんじゃねと個人的には思ってます。

 

 さてなんでテーマを「表現」にしたかなんですが、別にSNSで呟けないこともないんですが、そういう呟きってどうせ求められてないでしょ、っていう理由です。SNSで思想を語って共感のリプやファボがつくのは著名人か特定の界隈で人気のある人で、良くも悪くも平凡な人が思想を言っても流されるのがオチだと思うんですね。まぁ逆にそれがSNSの良さでもあるんですけど、どうせ流されるならブログにまとめておいた方が個人的に後から見返しやすいし好都合かな、と思って書いている感じです。

 表現といえば「表現の不自由展」みたいなのがありましたよね。自分、あれについては全く詳しくないんですが、なんか配慮すべきことがあって作品が展示できなかった、その不自由さを解説等を加えることで訴えているんでしたっけ。この記事を書き終えたらちょっと調べてみようかな。

 

 

1.現状

 人種や国籍、LBGTや女性の社会進出、ハラスメント対処や障害者など、今の世の中は(人類史の中で見たら)様々なこと・方への配慮が行き届いている/行き届き始めています。それは道徳的・人道的な観点からしたらとても喜ばしいことですし、まだまだ差別に関する課題は山積していますが、今後も一層改善を推し進めていくべきでしょう。多様性を尊重する社会において不当な差別は最も排除すべきものです。

 

 でもその『改善』ってどこまで推し進めるべきなんでしょうか。

 

 『平等』の名の下に差別問題は一つずつ解消が試みられていますが、それによって犠牲となってきたのは『表現』です。(この『表現』は言葉によるものだけではなく、ルールやシステムなども含むとします。)差別行為自体は、ヘイトスピーチなら言葉を介して、いじめなら無視や暴力というシステムを介してといったように、そもそも何かしらの表現(コミュニケーション)を伴いますから、平等化が進むにつれて表現に規制がかかっていくのは当然といえば当然の結果です。では今現在その規制は正しい方向に進んでいるのか、という話です。

 例えばハラスメントについて、社会的に受け取られている定義としては「相手が不快に感じたらハラスメント」みたいな感じになっていると思います。でも相手が不快に感じるかどうかなんてはっきりとは分かりませんよね? 自分の行動を決める基準は全て自分の考え・経験に基づいているわけであって、DNAの段階から違う、ましてや同じ経験をしているとも限らない相手に対して「これは相手が不快に感じるだろうな」なんて推測を100%的中させることはできません。かといって、人と他の動物を分ける大きな違いとしてサリー・アン課題に代表されるような「相手の気持ちを推測できるか(心の理論)」があるように、推測するのを放棄しても良いというわけではありません。放棄したらそれはただの動物です。(動物が人間より知能が低いと言いたいわけではありません。むしろ人間の方がアホが多いんじゃ。

 しかし現代社会はその的中率をほぼ100%にすることを要求してきます。いや、実際は80%ぐらいでも良いのかもしれません。でも「同じ文化にいるんだから」「常識的に考えれば」という文句を盾に、常にその80%を的中させることを要求してきます。つまり各個人は常にあらゆる相手に対してほぼ完璧な配慮をしつつ何かを表現をしなければならない。失敗したら非難される。著名人ともなればその失敗は失脚を意味し、社会的に立場を回復する機会はほとんど許されない。これに当てはまる直近の例が森元会長の女性蔑視発言だったりするわけですが、しかしまぁなかなか酷なことを要求してくるものです。(森元会長は森元会長で、場所がどうだから発言していいというわけでもない気がするので、それは彼の落ち度だとは思いますが。)SNS上ではたまに「このハラスメント意味分からなくない?」みたいな投稿がされていたりしますが、それもこの要求が厳しすぎるが故の問題ではないでしょうか。

 

2.平等

 そもそも何をもって『平等』なんですかね。

 

 男女の例で考えるならば、例えば「男女の能力差は存在しない。そして人口における男女比はほぼ1:1。したがって職場や学校などにおける男女比は1:1になるよう努力すべきだ」という考えもあったりしますが、その結果って"平等"なんでしょうか。男女に能力差はない、という意見に対して異論を唱えるわけではありません。しかし職場にしても学校にしても、これまで能力を"平等"に審査して人を選別した結果どうしても男女比が偏ってしまってたものを、「本来はそうじゃないはずだー」みたいな考えから意図的に1:1にするのは、それは話が違うんじゃないでしょうか。

 

 え? 「その審査における"平等"はなんなんだ」ですか? 分からないです。ごめんなさい。殴らないで……。

 (「志願者が1:1になっていない時点でおかしい」という反対意見も出たりしますが、その場合職場や学校に対してのみ責任があるとは限らない、つまり社会構造にも問題がある可能性もあるので、自分としてはその反対意見は的外れかなと思います。)

 

 あと「管理職で男性が多いから女性を増やせ」という流れが以前社会的にも行政的にもありましたね。それでうまくいけばいいのですが、結果として以前管理職にいた男性よりも能力的に劣る女性が起用されてしまった、なんていう事態も起きていると聞きます。社会全体がより住みやすい場所になるようにマイノリティを救い平等化を推し進めた結果、新たに不利益を被るマイノリティを生み出している。でも世間的には平等化によるメリットの方が大きいと信じられていますし、新たに生まれるマイノリティって見落とされがちですよね。彼らを放っておくことは『平等』の精神に反しないのでしょうか。

 LGBTについても似たような問題が起きています。これは自分が教職課程の講義で模擬授業をやった際に取り扱った内容なんですが、トランスジェンダーの女性(元男性)が女性の競技大会に出場して良いのか、という問題が起きています。オリンピック憲章にもあるように、スポーツ界では人種や性別、国籍などに関係なく全ての人を尊重し平等に扱うことが目指されています。しかし身体能力が問われるスポーツ界において、トランスジェンダーの女性が有する体格や筋肉などは生物学的にも性自認でも女性である方に比べて勝る部分があり、彼らを同一の大会で競技させることは平等でないのではないか、生物学的な女性の競技人生を奪ってしまうのではないか、という議論や訴訟が起きています。つい先月にはトランスジェンダーの女性は女性の競技大会に出場できないとする法案がアメリカで可決されたりしていましたね。これはあくまでトランスジェンダーに限った事例ですが、元々差別の被害者である方が平等に扱われた結果として加害者になってしまう場合があるという点で学ぶべきところが多いかと思います。

 (一方で生物学的には女性でありながら先天的に男性ホルモンが過剰分泌されている方もいて、その人にはホルモン抑制剤投与が命じられており、それもそれで問題として訴訟されていたりします。)

 

 (LGBTに関連してですが、性別における『平等』な評価ってとても難しいよなぁと思います。例えばの話ですけど、現在は相手の性自認がどのようであるか色々な場合を想定しないといけなくなりましたが、もしかしたらこれから先、「男らしい」「女らしい」といった一側面的な言葉は簡単に使うことはできない、つまり確証が持てるまでは常に相手を中性的に評価しないといけないかもしれません。これ自体は別にいいんですが、個人的に気になることとして、「その時人が自身の性を自認するようになるのだろうか」ということがあります。後々の話と重なるんですが、良くも悪くも人は環境に影響されるますが、LGBT然り、自分の性自認も周囲との差異に基づいて形成されているのではないか、と自分は思うんです。もし「あなたは男性でもあり、女性でもあり、中性でもあり、無性でもある」なんて曖昧な評価をされ続け、かつ同様の評価を受けてきた周囲との差異がほとんどなかった場合、当人は自分の性別に関するアイデンティティを構築することができるんでしょうか? そもそもに「男女」という伝統的な概念があって文化が形成された以上、無性や中性だらけの中で人が育った場合に性自認がどうなるのかは未知だと思いますし、とても気になります。)

 

3.『平等』の目的と実際

 なぜ『平等』が目指されたのか、それは多様性の尊重、つまり憲法にもあるように『法の下の平等』や基本的人権を実現するためです。しかし今目指されている『平等』は果たしてこれに沿うことができているのでしょうか。

 

 SNSでは「〜な人がいた。この人は…ということを考えていないのだろうか」という意見があったりします。そしてそういうのは大抵大衆の共感を呼び、広く拡散されるものです。

 その意見や共感を否定しようとは思いません。しかし事実、尊重することと否定することは同時に成り立ちます。対偶法で考えてみればわかりますが、「尊重する→否定してはいけない」が成り立つと仮定して、対偶で考えてみると「否定してよい→尊重していない」となりますが、これは違いますね。例えば哲学において相手や先人の意見を批判することは、相手の意見をしっかり理解し、それを超える考えを提示する、という意味で尊重していると見做されます。

 

 しかし実際の世の中では本当に相手の意見を尊重した上で否定しているでしょうか。相手のことを理解しようともせず、頭ごなしに非難することが増えているのではないでしょうか。

 良くも悪くも世の中に出回る情報量が多くなったために、批判する際には必要な情報を各自精査した上で入手しないといけなくなりました。しかし人間そこまで有能ではないですし、自分に有用な情報ばかり目につきがちですよね。結果として都合の良い情報がたくさん積み上がることで自分勝手な批判が形成されやすくなるわけですが、これが個人ではなく企業として成立するとマスメディアになるわけですね。メディアが現実の一部分しか切り取っていない(偏向報道)ということを示す風刺絵が見られたりもしますが、マスメディアは視聴者に向けて感情を煽るような、つまり大半にとって都合の良い情報を流しがちだ、というのは事実なのでしょう。そしてそういう個人やマスメディアによって「差別の解消」や「平等化」が叫ばれているわけです。

 このようなことから個人的に、最近の『平等』を志向する批判は独りよがりなものになっているのではないか、本来の目的から外れていってしまっているのではないか、と思うんです。都合よく解釈しまくって自分勝手に理想像に対する愛を膨らませていく、本来の実在(例えば、男女はこういう生き物である、という"超"客観的な見解)に対して"自我"や"色眼鏡"といった余計なものをどんどん介入させていく、そんな"オタクな"世界が作られようとしてるんじゃないでしょうか。

 

 (どうでもいい話ですが、最後らへんの文はI・マードックの『善の至高性』という本に影響されてます。とても面白いのでぜひ読んでみてください。意味分からなすぎて頭痛くなるけど。

 

3.5 閑話休題

 つい先日、オリンピック関連で渡辺直美さんを豚に例えたことが差別だとして佐々木氏が統括役を辞任しましたよね。ブレインストーミングの時点における情報が漏洩しているのはどうかと思いますし、渡辺さん(やそれ以外のタレントなど)も自身の体型を一種のアイデンティティとして売り出しているわけなので、まぁ元々内部に何かしらのしがらみがあったのかもしれませんが、外部がそれを安易に「差別だ」と批判することや、情報を精査せずに報道する文春砲のやり方はいまいち気に入らない、というのが個人的な見解です。

 そもそも太っている体型を何かに例えることが果たして差別になるんでしょうか?

 いや自分が非常識な考えの提起をしていることは分かっています。いくらなんでも誰彼構わず「ブタ」だの「デブ」だとの誹謗中傷することはしません。それくらいの分別はあります。

 しかし世の中には「自虐ネタ」というのが存在してますよね。芸人で考えれば顕著だと思います。(パッと思いつくとしたら近藤春菜さんとかですかね。)彼らはそれを自身のアイデンティティとして売り出しているわけで、確かにそれを指摘されることを”差別”と感じ心を痛める人もいると思いますが、だからと言ってそれを一概に糾弾することは、そのような芸人やあるいは一般人の持ちネタ、活動場所を失わせることを意味しています。つまり差別になるのは発言者の悪意や聞き手の被害心情があってこそで、何かに例えること自体は差別にはならないはずなんです。

 多様性の尊重が大事であれば、佐々木氏の考え自体もその後すぐに否定されていたわけですし、今回の安易な報道は起きなかったはずです。どうも世の中には"多様性の尊重"と"差別の解消"を履き違えている、言わば『いい子ちゃんぶってる野郎』がいる気がして個人的にイライラしてしまいます。行き過ぎたフェミニズム、過激なヴィーガンや動物愛護、超左翼もそうですが、一方的な"良い"持論で固めまくるのはただのバカとしか言いようがないのではないでしょうか。物事をちゃんと多面的に考える力が今問い直されているような気がします。

 

 (多面的に物事を見る一例として、あえてトランプ派の見解を知ってみるとまた世界が広がったりします。@LibertyHangout とか面白いですよ。)

 

4.人間関係

 話は一転しますが、「誰かに配慮した結果、特定の表現ができなくなる」って構図はSNSでアカウントが大きくなると自由に発言できることが減るっていうことと似てますよね。しかし配慮するものが大きくなくても発言できることが減る場合もありますね。そうです、"人間関係"です。

 

 例えば「この日の参加は任意です!」みたいなメッセージが来たとしましょう。その相手が自分にとってどうでもいい相手や、逆に気心がよく知れた相手であれば何も考えることなく"自由に"参加を決めるでしょう。しかし相手が上司や先輩であった場合どうでしょうか。文言は何も変わっておらず相手は依然として人間であるのに、相手と自分の人間関係や印象を気にしてしまい、多少無理をしてでも参加するのではないでしょうか。「任意」という言葉は発言者にとっては自分で考える必要がなくなるためとても便利なツールです。しかし受取手にとってはいろいろなことを考えなければならない可能性が出てきて、とてもストレスになる可能性があるんですね。

どうしても部活に関して色々と愚痴が溢れてしまうんですが、以前先輩から「試験のある日の部活動参加は任意で!」みたいなメッセージが来たんですね。でも上述したように先輩からの印象が気になってしまいますし、「試験のある日」の具体的な定義、例えば「試験日であっても試験時間が部活に重なっていない場合は?」といったことが分からないので、結局「いや、これ参加する以外の選択肢なくない…?」となってしまうんですよね。その結果部活に参加し、でも試験期間中なので他の試験勉強に割く時間が減ってしまうこともあったりして。深く考えすぎなんですかね…。

 また親子関係(血が繋がっている必要性はないです。本人が親だと思う人を想定してください。)を考えてみましょう。どれだけひどい仕打ちを受けたとしても、自分が自立できるまでは親には最終的には逆らうことができないでしょう。他に頼る伝手がない場合、親に逆らって自分が生活できなくなるのと、少し耐えて親に多少なり従い生活するのでは後者の方が(生存面でも)望ましいですし、そのために多くの『表現』を表に出さずに飲み込んできているはずです。

 

 表現一つとってもこのようになる人間関係。加えて一昔前よりもいろんなことを考慮しないといけなくなった現代社。最近の人は人間関係が希薄だとか、ぼっちが多いとか、色々言われていますが、こういったことが実は背景にあったりするんじゃないでしょうか。人間関係が限定されているほど、気を張り続ける必要性がなくなりますからね。そしてその限定された人間関係の中でも表に出さずに蓄積された本音やら感情やらがSNSだったりブログだったりで吐き出されるわけです。例に漏れず、自分もここで思考を吐き出しているわけですが、なんとも嫌で生きにくい世の中だなぁと思います。

 そしてこういう時、大体世間的に言われるのが「誰かに相談しよう!」みたいな、明るすぎて逆に気持ち悪いフレーズですよね。「困り果ててたら誰かに相談できる体力とか気力とか普通ないんですが…?」と言いたい気持ちはさておき、大人(あるいは自分より年上の方)に相談すると決まって「考えすぎだよ」みたいな感じで返ってくると思います。それはある意味当然で、相談している相手はそういう状況を乗り切ってきた、いわば"生存者"である可能性が高いからです。本当に相談して理解してもらえる相手は同年代か、あるいはそのような生存バイアスましましではない日陰にいるような大人なんですが、しかし一方でそういう方との接触機会はそもそも少ないですし、仮に接触しても起きることは傷の舐め合いになってどのみち解決にはならないんですよね。つまり助かりたいのであれば結局本人がどうにかするしかないという……。生きるのって難しいなぁ……。(もう諦めて死ぬか)

 なんか書いてて悲しくなってきました。一旦この話はやめましょう。

 

5.差別

 現状や平等について考えてみたので、じゃあ逆に『差別』について考えてみますか。

 『差別』ってなんなんでしょうか。不当な『差別』のない世界は可能なんでしょうか。

 

 人によって意見が分かれそうな問題ですが、自分は「不可能なんじゃないか」と思います。その根拠としては『愛』の存在があると思います。

 よく「博愛主義者は誰も愛することができない」なんて言いますよね。意味は文字通りで、全員を"平等"に扱うからこそ特定の誰かを特別扱いすることができない、というものです。ぶっちゃけこの文句が全てを表していると思うのですが、『愛』って最も単純かつ原始的な差別要素じゃないでしょうか。

 『愛』には親子の愛情やパートナー間の恋慕、師弟間の絆や友人との友情、民族愛や自己愛なんてのも含まれたりしますが、それにより意識上に上らなくても必ず対人での振る舞いが変わってくると思います。『カルネアデスの板』は有名だと思いますが、端的に内容を書いておくと、極限の状況で自身の生存のために他人を殺害することは殺人罪に該当しない、というものです。設定としては「海に放り出されて板に掴まっていたら他の人が来た。しかし二人が掴まったら板は沈んでしまう。この時他人を突き放して殺しても良いか」みたいなものでしたっけ。まぁそんなことはどうでもいいんですが、この話は自己愛に関連して振る舞いが変わることを示しています。言うまでもないと思いますが、我が身可愛さのために他人(の生存権)を不当に差別しているわけですね。

(ちなみに勘違いされやすいですが、生存権基本的人権には入りません。単なる社会の努力義務です。)

 

 え? これは不当じゃない?

 いやいや、法律なんて所詮人が自分勝手に決めたルールですよ? 

 人間誰しも自分が一番かわいいもので、「他人の生も自分の生も同価値だ」なんていう聖人は、赤ん坊の時に母親に生存面で助けてもらっている(あれ、言い方悪くすれば"寄生=悪意ある依存"ですからね)時点で、この世に一人もいません。それに対して敢えてごもっともらしく権威づけて言い換えたのが法律ですからね。緊急避難だって十分悪意のある不当な差別です。

 

 話が逸れましたが、自己愛に限らず、親子愛であっても友情であっても、不当な差別として読み取ることは十分に可能です。(いわゆる性悪説みたいな感じですかね。)子供や友達が危機的状況にあって、それと同じくらいの距離感に同じく危機的状況にある赤の他人がいた時、果たしてどちらを助けるんでしょうか? 難民や被災者のお話を聞いて支援したりするのは良いですが、そこで「かわいそう」「大変だ」と言っている人は、本当に心底そう思ってるんですかね? 被災地の支援金やボランティアはどうして年々減少するんでしょうか? 心の奥底ではどこかしら他人事のように感じているんじゃないでしょうか? そう考えていくと全て不当な差別ですよね。

 そしてその源流には『愛』、生物学的に考えれば「適応度」や「血縁度」になったりするかもしれませんが、それらが存在しているのは明らかではないでしょうか。つまり『愛』を持たないものしか全てを平等に扱うことしかできない、ということです。それってどういう存在ですかね?

 端的に言えば「死体」じゃないかな、と思います。死人に口無し。死体は栄養分となって分け隔てなく地球に還ります。最高の存在です。よし、死のう。

 

 そもそもですが、"多様性を尊重する"社会であり続ける限り、"差別"自体はなくならないんじゃないでしょうか。個人的な意見ですが、マイノリティや『差別』は本質的には『区別』と変わらず、そこに二次的な感情が付与されているかどうかだと思っています。そして多様性とは相手との違い、つまり『区別』によって作り出されていると思います。したがって元々何かしらの違いがあり区別されているからこそ多様性が生み出されているのであって、平等を目指し差別を無くすことはその違いさえも喪失させる、ある意味で画一化を目指しているとも言えるのでは無いでしょうか。DNAまでは行かなくとも、経験や思考回路まで均一化した時、一体どのようになるのかは分かりませんが(歴史を振り返ってみる限りでは)あまり良いイメージは持てないんじゃないかなと思います。

 不当な『差別』だけを無くすこと、これはもしかしたら可能かもしれませんね。しかしこの記事の一番最初に言ったように、相手がどのように思っているかを100%的中させることはできません。どれだけ多くの人が「それは差別ではない」と感じるまで社会が成熟したとしても、そこに突然変異のように1人「それは差別だ」と感じる方が出てくる(悪い意味で捉えないでください)と、もうそこにはマイノリティがいて差別が存在していることになるんです。

  (『見た目が9割』とか『話し方が9割』とかそういう本があったりしますよね。あとミスコンもルッキズムの観点から時折炎上していたりします。いくら平等な、公平な視点を持とうと努力したところで、そのようなエンタメが存在している以上、そもそも『差別』を減らす段階で限界がありそうな気がします。)

 そして思考は時代に合わせて変わるものです。つまり差別も、総数としては減っていったとしても、新しい形態がどんどん生まれてくると思います。新しいタイプが出てくるという点ではウイルスに似たところがありますが、多分ウイルス1つ撲滅するより差別1つ無くす方が何倍も難しいと思います。

 

 6.最後に

 勘違いしてほしくありませんが、冒頭で述べたように差別の解消をしていくことはいいことだと思いますし、今後も続けていくべきだと思います。しかしおそらく時代にあった『平等』というものがあり、その中庸から外れると結果として表現の面でより自由になったはずが不自由になっているという、奇妙な現象を引き起こすことになるのではないでしょうか。

 確かに時代は常に変化していますし、『平等』も常に変化し続けないといけません。しかし今は『平等』の方が先走っていて、時代が追いついていない感じがします。例えば教育現場では個性の尊重が目指されていながら『ゼロ・トレランス』という画一化も求められていたりします。意味が分かりませんよね。一度冷静になって時代を見極める必要があるんじゃないでしょうか。

(そういった一見時代に合わない考えが時代を変え、新しい時代の新常識になっていく、という意見も確かにあるんですがね…。難しいところです。)

 そして多分『差別』という概念がなくなることは人類が絶滅でもしない限り無理だと思います。嫌な言い方をすれば、『差別』はゴキブリみたいなもので、どうやっても生き残るし、また本などの媒体を介して生き返ることもあると思います。

 だから必要なのは、そういう差別を全て無くそうと頑張るんじゃなくて、どうやって社会や表現が差別と付き合っていくか、ということになるんじゃないかと個人的には思います。まぁ「じゃあその付き合い方ってなんだよ」と言われて何かを答えられるほどまだ自分の中で明確な答えが見つかっているわけではないんですが…。

 

 

 アホみたいに長くなってしまいました。もう終わりにします。

 共感なり反感なりなんか感じてくれれば幸いです。というか、そもそもここまで読んでくれてありがとうございます。(一気にスクロールした方もいるだろうけど。)

 次回はいつ書くんだろう…。というかこの駄文、自分の適当な考えまとめるのに苦労して、付け足したり消したりを繰り返して結局2週間強かかったんだよなぁ…。今度はもう少しラフな話題扱いたいけど、4月からは授業始まるし……。

 

 7.個人的な話(というか近況報告)

 本論とは全く関係のない話ですが、つい先日親と話していたりして、「お前は冷めた考えを持ってて良いけど、気が小さいよなー」と言われました。まぁ自分でもそれなりに自覚はしていますが、「でも冷めてる割に人から嫌われるのを怖がるって随分と矛盾してるよな…」と思います。生きている以上誰かから嫌われるのは必至ですし、どうして今更全員から嫌われないように振る舞おうとするのか、非常に不思議です。自分のことなのに、全く理由が分かりません。こういう矛盾した行動の理由とか、あるいはサバサバした人間関係の構築の仕方とか、誰か教えてくれませんかね?